絵面の力に囁かれて一

渡部満の生気移入面一

米倉守(美術評諭家)


画家渡部満さんの分身である由希子、奈緒子は、うたたねをし、夢を見、あるいは読書をして、たった一人の自分だけのひろやかな世界を生きている。渡部さんは北の八戸市で、夢みる由希子のように神が耳もとで囁くような自らのイメージを紡いできた画家である。

由希子はかつて漫画本に埋もれていたが、今はイタリアの古典のなかにも、日本の名画のなかにも、あるいほ自分自身のなかにも、同じ輝きを放って存在している渡部にとっての絵画的なものをじっと夢想している。渡部さんの作品は決まり文旬、常套旬をたくさん並ぺてつくる短歌のように、どこかで見た、だれもが知っている古典と不思議な二十世紀末の少女を並ぺて”一編”の作品と化している。

西鶴は、決まり文旬を決まり文旬でなく見せる天才であったが、いわぱ渡部さんのシリーズもそれに近い才能であろう。大岡信さんは、戦後の目本教育というのは、決まり文旬や、常套旬は個性的でないからと蔑視してきたが、それが実は個性のない人間をたくさんつくる結果になった、といっている。西鶴ではないが、決まり文旬の並べ方によって個性が出るのだ。決まり文旬は素材であり、素材、材料の取り合わせによって、いくらでもいろいろな作品ができる。それには決まり文旬をたくさん知っていなけれぱならない。

「この上なく欲張った操作」は、渡部さんの作品にそのまま通じるもので、この画家の仕事も単に先人の絵の換骨奪胎の技法ではない。古典の一部が切りとられて描かれていても、見る側にはその全体図が頭のなかにあるのだから、実は全体を描きこんでいることになるのだ。渡部引用の部分がすなわち全体であって、不思議少女と重なって、複雑な効果を出しているのである。むしろ山本氏の論のように“本画”のほうの「いのち」を奪取しているといったほうがよいとおもう。

渡部満にとっての絵画的なるもの、絵画固有の力が、由希子や奈緒子の頬にそっと口をあてて囁くよつに告げている重厚で短いことぱのような美なのである。古人が八ツ橋にはかきつぱた、隅田川には都鳥、宇津山にはつた楓など、景物と抱き合わせで“歌枕”を作ったように元気な由希子には御舟散椿、眠れる由希子には何々……というような不思議少女と抱き合わせた生気移入の新絵面がこんごも生まれるのだろうとおもっている。