寺山修司と歯科


何故クインテッセンス出版 ??

クインテッセンス出版 という歯科関連書籍を専門に販売する会社がある。この会社の月刊誌は開業当初の20年以上前から、最新情報と技術革新の為愛読させていただいている。一時期は本部米国のものも定期購読していた(正確には定期閲覧(笑))。ワシもその月刊誌に何度か文章を載せていただいた 事もある。先般その会社からDMが送られてきた。
「寺山修司著作集」

・・・・・・・・・・・・・・・なぜ?クイント?初めは何かをかたる偽物かなと勘ぐったが、これがまた本物だし。確かにこの会社、歯科以外でも一般書籍は取り扱ってはいるのだが、この、寺山な系統はまず見当たらないのでR。どうしたんだろうなぁ?今年は寺山年だからかなぁ、、等と考えながら、ワシのブログに幾度となく登場した寺山を、せっかくの歯科出版社からの企画なので更に自分に(笑)絡めてみる。もちろん、買ったし。

今回はワシのオバサンの中野トクおばちゃんの回りにに的を絞って。
ちなみに、ワシのお袋はトクおばちゃんの妹。小さな頃から、あんまり仲良くしてるのは見たことが無い。というか、良くケンカしてたよなぁ。そんなもんか。ワシのイメージはそうなのだが、他からのおばちゃんの評価は素晴らしい生徒思いの先生で優しいらしい。皆口を揃えて「恩師」と言うしなぁ。県知事の三村さんも、代議士時代国会陳情で初めてあった時、中野トクがおばちゃんだと分かった途端、大喜びするほど。かえって身内には分からない話。。

「中野トクは昭和24年9月30日付で大三沢中学校に赴任した。したがって寺山は中野の直接の教え子ではない。大三沢中学で中野の教え子だった広瀬隆平氏が二人を引き合わせたのである。「寺山はあまり幸福でないから、先生に会ったら少しは幸福になるかもしれない」と広瀬は中野に話したという(「『われに五月を』のころ」『デーリー東北』平1・5・15)。
しかし、この記載は、ワシらが幼少の頃から聞いていた話とはちょいと違う。多分広瀬氏の話の方が本当なのかも知れない。但、はっきりしているのは、寺山の心の奥に潜む寺山を、ツルツルと引き出したのは、トクおばちゃんであった事はマチガイナイ。教えてあげた短歌が、寺山を呼び起こしたのだ。だから、青森に移ってからこそやり取りが続くのは・・・・・良く三沢のおばちゃんのところへ1人で遊びにきて、おばちゃんはその度にすき焼きを食わせた話は有名。寺山は、歌と共にすき焼きが食いたかった。。

寺山が中野に宛てた書簡は、高校二年生の昭和28年1月1日にはじまり38年までの75通におよぶ。内訳は高校時代が10通、29年4月早稲田大学に入学し翌年3月までが7通、入院後の30年4月から年末までが19通、31年「絶対安静」が続く中で26通、32年8通、33年3通、以後が2通である。そのうちの50通、全体の3分の2が「ながい手紙下さい、手紙と本位しかたのしみもなし」(昭30・11・17)という入院生活の中で書かれたものである。

「寺山修司 青春書簡 ─恩師・中野トクへの75通─」二玄社版

1997年2月から8月まで『東奥日報』に寺山修司が中野トクに送った手紙の内容を紹介した(「拝啓中野トク先生・修司青春の手紙」全二十五回)。息子の直樹ちゃんは、自分の母が大切にしてきた寺山の手紙を預かるのは荷が重く、個人での保管には限界があると考えていた。その手紙が1996年12月三沢市に寄贈され、寺山修司記念館に保存されることになり、「これで肩の荷がおりた」と心底ほっとしたのでしょう。。。直樹ちゃんはバリバリの理工系で、ちびっ子だったワシは、何でも器用に機械を作れる直樹ちゃんにある意味憧れていたかも。その直樹ちゃんも、早すぎる他界でした。ちなみに、おばちゃんや直樹ちゃんは、カソリック教徒でした。親戚のワシらも全く知らず、亡くなった時初めて分かったんですよ。む~、何処で洗礼を受けたのか。。ま、ワシも三沢カソリック幼稚園だけど(笑)。寺山は??

Posted: 木 - 1月 15, 2009 at 06:37 午後        




©