泣けるギャグマンガセレクション


泣けてきた(笑)

物置をがさごそと整理をしていたら、10年ほど前の月刊宝島の別冊で「泣けるギャグマンガセレクション」という本が出て来た。かつてのギャグマンガ中に見る「涙」の名場面を集めたモノですよ。元々ペーソスの多い「いなかっぺ大将」。実は非常にシリアスな「おぼっちゃまくん」。シュールな中に人の心を抉る「いじめてくん」。今なら自主規制の嵐に見舞われるだろう「オモライくん」や永遠の名作「おそ松くん」。覚えている人も多いかもしれない「シェイプアップ乱」。出来の良い絵本を見ているようなみなもと太郎氏の名作「どろぼうちゃん」。どれもこれも、今の漫画にはない愛に溢れ社会性溢れる名作ばかりのようだ。

とんでもない売り上げを誇る「ワンピース」は今もって愛読しているけれど。この根底には、左傾化してくだらない権利ばかり目立ち、過去の日本人を否定ばかりする社会に対して、投げやりになっている今の若者が実はあこがれている、希薄化してしまった「友情」「なかま」「夢」「冒険」そして何よりも理屈抜きの「愛」が非常に上手く表現されていて、いつまでも面白い。今の社会にないモノがそこにある。仲間や組織の為に死ねるのか否かを常に問われる場面に皆あこがれるのだと思う。
ところが、これら1970年代前後を飾ったギャグマンガには、手塚治虫の未来への夢を含む真摯さや鋭さとは違う、ある種の「いい加減さ」や「差別的貧富」が非常に現実的に描かれ、おまけにこれらを豪快に笑い飛ばしているたくましさが素晴らしい。夢ではなくその当時の社会に本当にあっモノがそこにある。

そういえば、ワシの大好きな混沌とした1960年代、町は暗く商店は早くに閉まり、テレビは必要な時だけ。個人が垂れ流しているものは何も無い時代。戦争で片足を亡くしただろう物乞いが町の片隅でハーモニカを吹き、貧しい家の子は物怖じせず靴下もはかずにゴムの短靴を引っかけ学校に来た。
「おそ松くん」の中で、いつも虐げられている貧乏なちび太が、脚本上金持ちの嫌なバカ殿様になっていて、下々の前で豪華な朝の食事をわざと見せびらかしながら「腹ぺこども、うらやましいか?」と言う下りがある。それを見て決して裕福ではなさそうな長屋の母ちゃんが子供に向かって、「欲しそうな顔するんじゃないよ、みっともない」と一蹴する。素晴らしい。
「かあちゃん、だって腹減ったよう、、、」「バカ言うんじゃないよ、夕べ晩飯食っただろう!」

日本総中流意識とか言うおかしな感覚がなかったこの時代、少なくともギャグマンガの中にも、差別と差別から来る悲しみと、しかしそれに負けない秩序とモラル、そして何よりも、そういう環境にも負けないたくましいポジティブな行動が随所に見られ、そして涙を誘う。シェイプアップ乱の中に出てくる左京君の家の貧乏さ加減は大変なモノだけれど決してそのことが恥だとは思わず、貧乏だと意識することが恥だと思っているのがすごい。永井豪と言えばハレンチ学園かもしれないけれど、1972年からの少年マガジンで連載された「オモライくん」では、すでに確立している貧富の差をモノともせず、乞食だけれど澄んだ瞳で心だけは誰よりキレイだと走り回る。素晴らしい。

こう言う漫画に相当影響されたワシらは、どうしても今の社会に対して違う角度から見つめ直したくなるのかもしれない。今の時代、ホームレスを題材にホームレスの目線で子供向け漫画は書けるだろうか。ワシらの時代、物乞いの目線で物乞いの事を漫画にしても何故笑い飛ばせたのか。「右や左の旦那様、哀れな乞食にお恵みを」というフレーズの生き方が、どんな事情でも恥なんだと大人は子供に教えていたが、それが漫画の世界で何気に分かった「恥」の生き方だったようだ。働かざる者食うべからずと、働きもせず年をとることが恥なのだと今、誰が教えるのだろう?

世の中を普通に二分して議論されているようなことを、某組織に投石のように持ち込む。すると、そんなことは信じられない、その攻撃の仕方はおかしい、これは議論ではなく誹謗中傷だ、私は同意できないと、まるで何かの教組を否定されたかのような発狂状態のあと、最後に持ち出す当然の左巻き由来の権利の主張。この、お互い子供の未熟なケンカの様は、本当にみんな、見かけは裕福になったんだなと感じる一コマ。かの時代では、あり得ないところが、かの時代が羨ましい。

Posted: 日 - 5月 8, 2011 at 05:55 午後        




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