芸術闘争のまねごと(笑)


久しぶりに語るアートは心の扉が開く

いつからなのか忘れるくらい久しぶりにカフカ的K氏と話し込んだ。龍が明日スイスに帰るモノだから、せっかくだからと言う事で食事会を二人で。いつの間にか龍とカフカ的K氏はマブダチになっていたのでね。その後ワシが遅い時間に合流してすっかり忘れていたかもしれない芸術の心なぞ話し込んだりして。数日前、東京から来た武蔵美出身の映像研究家が寺山博物館に行ってきたと屋台の隣の席で聞くに及び、ワシのおばさんが中野トクだと言う、研究家にしてみれば驚きのセットアップで大いに酒が進んだ。思えばワシのアルゴリズムが少しアートに傾いているのかもしれない。

K氏は今、作品に没頭している。つい先頃出版された合同歌集「希望の河」はブログ右横のアマゾンからどうぞ(笑)。「大庭れいじ」が綴るマニアックな言霊は、初めての人でも大脳の片隅に、初めは申し訳なさそうに隠れていたりするのだけれど、ふとした瞬間に大脳全体を支配し、かすかな抵抗をしていた脳下垂体まで支配下に入る(笑)。が、日常のストレスがまた元通りの平穏な大脳辺縁系を目覚めさせ、言霊は片隅に。

映画や実験映像を通して、心や景色の断片や時間を四角いフレームの中に如何に閉じ込めるかという研究は、小説を書くことよりも歌を詠むことよりも、随分と難しい気がするが、実は感性のウエイトは映像の方が遙かに大きいものだから、行き当たりばったりがアリだったりはしないだろうか。そんなマニアな映画がワシは好きなので、「予定されていた予定外の出来事」を行き当たりで演出する様に見せかけて術は行き当たりの演出であるところのホドロフスキー監督ものや、やはり北欧の時間の魔術カウリスマキ監督に心引かれるのである。
しかしその大本は明らかに黒澤であり、それは根性みたいの物だと思う。
だから、中村光の「聖☆おにいさん」の立川の安アパートに暮らすキリストとブッダのシュールが黒澤とホドロフスキーに近似してシュールなのですよ。。

なんて言う話を、久しぶりにだらだらと話す楽しさは、ワシには文系の血が理系の血の皮を被って流れていると思わせる瞬間だったりして、思わずエンドルフィンがわき出してきたりするのですよ。時間を忘れてしまいそうな語りでしたが、本日は朝から三沢でオペサポートでしたから、あまり遅くなれなかったわけです。次の機会にさらなる突っ込んだ芸術闘争論でも村上隆バリに話してみようじゃありませんか。

Posted: 土 - 8月 27, 2011 at 04:25 午後        




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