thinking

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21世紀の医療へ

我が国の医療の発展は、昭和30年代初頭、国民皆保険をベースに大きく移り変わってきたはずだ。貧富の差によって受け取ることのできる医療の質はこの時点でなくなったと私たちは信じている。しかし近年、一国民として当たり前に享受できる医療にかげりが見え始めていると感ずるのは私だけだろうか。この問題は医療が抱えている2面性を考えてみなければならない。

--医療人の側の医療--
 我が国の医療の批判として、病気を診て病人を診ない診断中心主義等との悪口は、世界的医学技術レベルがトップクラスにあるにもかかわらず、いかにも寂しい限りである。確かに医学技術を応用しなければならない場面での「医療」の遅れは福祉の面にまで暗い影を落としている。「医療には、サイエンスとアートの両側面があり、両者が渾然一体となって展開されてはじめて真の医療といえる。」(医療学 河野友信 1990/朝倉書店)という言葉に素直にうなずける私たちはどれほどいるのだろう。我々医療人の側にこそ必要なことは、政官の麻痺に似た患者に対する感覚のずれを回避する能力を養うことであり、胸を張り最前線医療を進化させることである。それなくして、未来的全人医療は望めないだろう。システムを創るのは我々である。

--国民の側の医療--
 物議を醸した川柳「老人は 死んでください 国のため」(オール川柳4月号 最優秀)。誰でも驚き、胸を痛めるこの句の真の姿こそ今国民が思う医療への警鐘に他ならない。私たちはそう思っていなくても、国民はそう思っているのか、あるいはそう思っているに違いないと確信していても、口に出さないだけなのか、そして私たちも、仕方がないと口には決して出さないが、見破られているのか。たった一句ですべてを語られた。

かつて、医療福祉で崩壊した国家が存在したのだろうか。先送りの好きな我が政府は、これほどまでに重要な問題にさえ蓋をしようとする。豊かさのはき違え、幸福の誤解、目先の利益、これらの混沌が倫理を基とする医療を揺るがしはじめている。子供たちに借りているこの時代、大人として医療人として、国民として、人間中心の医療-全人医療と、その社会システムの構築を急がなければならない。

1998 記

ネガティブになってはいけない・・が


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EBMとEBA

EBMという言葉を頻繁に聞くようになって数年が過ぎただろうか。医科でも歯科でも、自分が行なう実際の治療の背景を、より科学的により合理的に理解するためには当然の事である。正当性の評価でもある。本来すべての医療行為はエビデンスに基づくものでなくてはならない。
 しかし、元々この言葉の生まれた背景は、米国の保険会社が少しでも医療費の支払いを渋るための口実に使われだしたのだと言われている。米国は、世界一医療にお金を使っているにもかかわらず、その医療に対する国民の相対的な満足度がケタ違いに低い。医療とて、勝ち負けを明確にしなければならないサービスビジネスと考えるなら、EBMなしに合理性は考えられないし、合理性があるからこそ正当な医療が供給される。だがなぜか、それが受け入れられない。より科学性を求め、証拠集めに奔走することは、別の次元でのコストを次々と増大させ消費に跳ね返る。そんなインフレ医療は、やはり受け入れられない。原因は何処にあるのだろうか。EBMが浸透してきている現在、歯科医療も格段の科学的進化を遂げているではないか。
 ところが、日常の臨床には、EBMでは計り知れない事が数多く存在し、医師も患者もそれを選択せざるを得ない場面が多々ある。こういう状況を、例えば米国の保険会社ならば否定するだろう。そして、米国の国民はそれを知っているから、現行医療に満足していないのではないか。
 抜本医療改革が必要だと言われている日本は何処に行くのか。医療はEBMだけではないことを私たちは古くから知っている。小津安二郎監督作品「東京物語」の心象を抱きながら、EBA(approach)できるのは、日本人だけだろう。そこに医療の理想がありはしないだろうか。

混合診療

以前から指摘されていることだが、日本の医療保険制度では、例えば外科手術なら成功しようが失敗しようがその値段は同じだし、臨床経験豊富な優れた歯科医師だろうが卒後1年の歯科医師だろうが同じ金額である。日本型社会主義から成る現制度では致し方ない。しかも国民の多くはこの社会保障の継続を心から望んでいる。戦後、知らないうちに蔓延したいわゆる平等主義は、差がある事自体が非であると教育された。それが医師の良否であったり患者の受け取る医療サービスであったりしても同じようだ。本来平等とはスタートラインの事ではないのか。
 医科では混合診療の議論が一昨年より盛んに行われている。歯科ではすでに補綴がそうなっているため違和感が無いだろうと言う。しかし、日常診療のさまざまな医療サービスの局面で保険給付のみでは不十分であると感じることは多い。憲法で保障する国民の必要な医療を受ける権利と、アメニティに期待する個人の思惑は別のものだと思うのだが。そして、それに答える医師と、そうではない医師に収入差が出るのは当たり前のことである。その是非に関して多くの議論がなされ、前者が国民の幸福につながる医療だと思われている場合も多々見受けられる。先の意見と矛盾する。社会保障を拡大し、世界でも唯一フリーアクセスを実現している我が国の保険政策をあくまで純粋に推進し、歯科医師の良否の判断は監督行政に任せるか、歯科医療の快適さ心地よさに十分耐えられる混合診療の導入と、より精密なインフォームドにより、歯科医師の良否を患者にまかせるか。
 向かいにある洋菓子店は毎年エントランスをかなり大掛かりに改築し、その美しいフォルムは毎回話題になる。20名程が職人の卵として修業をしているようだ。洋菓子店と比べる気はさらさら無いが、再投資の余力の無い我が業界では、できる人は限られてくるだろう。

過去から

お盆休みは皆、先祖の供養で墓参りをするのが普通だと思っていた。地域により多少の風習慣習の違いはあれ、いつの時代からか夏の行事として定着して久しいはずだ。ところが、若い従業員数名がお墓には一度も行ったことが無いと言った。これには驚いた。父や母が行かないのだそうだ。ところが、祖父母に関しては彼岸もかかさず供養に行くのだというが。
 こんな当たり前のことを、戦後否定してきた人たちは心がさもしい。個人の低俗な権利(欲望)ばかり主張する世の中になるのも首肯ける。過去、自分の父母、祖父母、曽祖父母、、延々と続く時間軸のここに自分がいるのだということに、先祖の供養をもって確認する事の重要性を忘れている。DSC00708.JPGいや、それを否定されて教育されてきた。「過去の大戦を猛省して・・」等という左翼的な自虐再生論は、他国の戦争プロパガンダに仕立て上げられた今の日本、国民崩壊の方程式と化している。
 同じことを我が歯科界に転じてみると、似たような革新思想が大切な歴史を踏みにじっている場面がある。今の歯科界の礎になった多くの先人の努力をないがしろにしている。彼らは未来の歯科界の繁栄を願い、歯科医師法の下、中央組織したのではないか。しかしながら実態は、歯科医師会内部の権力闘争に明け暮れ、そういう意義や本来の目的を忘れ、身内のみが集まる。リアリティの無い革新論と与党保守論が議論の無いまま惰性でごちゃまぜになるから、肝心の国民歯科医療が大変な事になる。その結果歯科医師会は求心力を失い、歯科医師達は公衆衛生などほったらかし、個人に没頭し個となる。
 嗚呼、ややもすれば、この国同様歯科医療崩壊の方程式となるだろうか。過去を紐解き、先人の熱い思いに触れ、祖先の霊同様に慈しみ尊ぶことに、革新ばかりではない再生の鍵が隠れている。  

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かつてのコラムから拾い上げて今感じる事

かつて酒屋が6時頃終っていた頃、夕方あわてて買い出しに行った。それが当たり前で何も不便ではなかったし、売る側買う側の礼儀があった。今風に、無尽蔵に要求を満たす事が本当にお互いの幸せが得られるのだろうか。
 職人といわれる人たちは、その頑固なまでの気質で職業を文化にまで昇華させる。では私たちは如何様に生きるか。我が職業を文化にまで昇華させる事は出来るのか?